毎朝祈るようにグラノーラをヨーグルトに入れている

 グラノーラって美味いな!ということに一年前くらいから気付き始めた。子供の時からシリアルとは無縁の人生。とにかく牛乳を単体で飲めないので、シリアルを牛乳にひたして食べるなんて考えられなかった。牛乳を抜いたシリアルなんて、栄養がほとんどないようなものだし、あれよりも美味しいお菓子なんて山ほどあるから、シリアルとは無縁の生活をしてきた。

 そんなこんなで社会人になって、朝食の重要性を再認識しはじめた。何を今更と思うが、とにかく腹いっぱい食べれば元気になることに気付いた。食パン一枚だけで数年も過ごしてきたことが、今となっては信じられない。とりあえず手始めにバナナと食パンという朝食が始まった。バナナも100円で売ってるバナナではなく、250円くらいする良いバナナ。値段をかければかけるほど、大きくて密々としたバナナを手に入れることができる。もちもち~としたバナナは美味い。なおさらデカいとお腹に溜まって嬉しい。そして二ヶ月くらい続けたある日、ヨーグルトを足してみた。するとこれも美味い。牛乳は無理だが、ヨーグルトは死ぬほど好き。デリーにいたころ、朝食にキンキンに冷えたラッシーを暑い暑い日に飲むのがたまらなく好きだった。そんなこんながあってヨーグルトも朝食に加わった。

 しかしここである疑問がポツリと浮かんだ。「栄養偏ってない?」そう考えば考えるほど、腹を満たすことはできているが栄養は大きく偏っているような気もする。しかも毎日毎食一緒だなんて。絶対健康に影響出るやんと焦った。すると手にはグラノーラを持っていた。完璧なる五角形グラフ。パッケージにはビシバシと、栄養があることを宣伝している。買う以外考えられなかった。少々値段は張るが、そんなことどうだって良い。栄養にまさるものはない!という気持ちで買った。

 グラノーラって単体でも美味いんだよね。バクバク食べれてしまう。しかも食感も楽しい。バリボリと行けるときもあれば、グニュっとするときもある。食感のエレクトリカルパレードなんて、しょうもないことも浮かぶ。これをヨーグルトに混ぜると更に美味しい。さっぱりした無糖のヨーグルトにグラノーラで、パリパリザクザクな食感が楽しい。しかし案外、割合が難しい。グラノーラが多すぎるとヨーグルトが余分な感じがするし、ヨーグルトが多すぎるとグラノーラらしさを感じられない。グラノーラとヨーグルトの微妙な関係。毎朝祈るようにグラノーラをヨーグルトに入れている。今日こそ好きな割合になりますように。日々生きている中でお祈りすることが多いのかもしれないと感じた朝食のはなし。

たまらなく休日

 朝九時に起床。体がだるい。低気圧のせいだと思われる。いそいそと昨日買ったガーリックフランスパンを焼きながらコーヒーを淹れた。ああたまらなく休日の匂いだ。カリカリに焼いたパンに少しオリーブオイルをかけて食べる。たまらなく休日。にんにくというものは食欲を誘うなぁ。ただパンにまぶしているだけなのに。まるで肉のような味わいになる。ベジタリアンの中でにんにくを避けている人たちの気持ちがわかった気がする。ほぼ肉みたいな野菜だ。

 どうしても雨の日というのは全てのやる気が起こらない。友人に送るための植物をダンボールに梱包した。挿し木した木がどんどんと大きくなっていて、手にあまるほどの量になりそうなので友人らにあげている。僕の家にある植物のクローンが友人の手に届くようで面白い。元気でいてくれよと少し悲しい気持ちになるのも面白い。まるで子供のようだ。郵便局に持っていくと思っていたサイズよりも小さいサイズで送れるらしく、少し送料が安くなったのも嬉しかった。

 ここ最近レースカーテンが欲しく、雨が上がるのを待ってニトリに向かった。どうしても窓を開けたいときがあって、でも家の前が道だから人の目も気になって。すごい格好で朝食を食べてるときとか、ノリノリで飯を作っているときに、時たま近隣住民と目が合う時があって恥ずかしい。レースカーテンがあれば全て解決するはずと信じている。カーテン売り場に行けば、山ほど種類があってびっくりした。遮光やら遮像やら考えたこともないことばかり考えてしまう。とにかく悪くないだろうと一番いいやつを買った。

 せっかくバイクに乗ったしということで、祖父母の家に行った。数年前は祖父母の家での立ち振舞いに悩んでいた。もう社会人だし、なにか買っていったりしないといけないなとかイチイチ考えていた。しかし、ここ最近はそういうことをきっぱり考えるのを辞めてしまった。祖父母にとったら、僕はいつまでも孫。どれだけ背伸びしたって孫なのだ。孫が急に赤の他人になったりしない。社会人になったって孫は孫なのだ。孫らしく振る舞うということよりも、いつもどおりに僕が過ごした方が祖父母も過ごしやすいと考えるようになった。なので腹いっぱい飯を食わせてもらった。申し訳ないという気持ちもあるが見せないようにした。自分の立ち位置を把握し、振る舞うことを覚えてしまったことが少し悲しくもあり、大人になった証拠なのかもしれない。

 最近物忘れしやすくなったと祖父は言った。確かに時々あれれということは多くなった気がするけれど、スクショした画像をラインで送れる祖父なのでそこまで心配していない。祖母は庭に生えているミモザの写真を見せてくれた。まだまだ元気そうでなによりである。

 休日がまた終わり、6月が始まった。もう何も自らアクションを起こす元気がないなと感じる。どうしたものかと頭を悩むときもあるが、もうほとんど諦めてしまっているのかもしれない。今後どうなることやらと考えても、無駄とわかってしまったのか。自分でもわからない。今年半分はどうなるんでしょうかね。

受け取ってくれよと水やりをする。

 はいどうぞ~と後輩からじゃがりこを貰う。新人教育をしなければならず、何歳も下の後輩と仕事をしている。そんな彼女がよくよくじゃがりこを買ってくる。あまり買うことがないお菓子。先輩も食べてくださいと言われるので、いただく。味はハニーバターチキン。確かにチキン。ん?いや、なんか変だな。チキンの味はしているが実際に食べているのはじゃがいもである。違和感を覚えることなんてなかった。しかし今大きな違和感を覚えている。味はするけど実際に、食べている飲んでいるものは別というものが多すぎる。フルーツ味の水とかお菓子とか。誰も何も言わないが、よくよく考えると怖い。味はするけれど、食感や形が別にあるものを、ただただ受け入れている。チキンなのに、実際はじゃがいもを食べているなんて恐怖。じゃがりこ恐怖症になってしまった。というか大半のスナック菓子が怖くなってくる。野菜も肉もないのにBBQ味。魚介なんて入ってないのにシーフード。ああ怖い怖い。見たもの、イメージしたものをそのまま食べさせておくれよ。

 ここ最近、暑い。木造建築の我が家はどんどんと室温が上昇している様子で、植物たちがイキイキしている。しかし一階と二階に置いている植物の成長スピードが明らかに変わってきた。どうにもこうにもほっておけず、一階に置いている植物全てを二階に上げてしまった。寒い寒い冬を超えて枯れそうになりながらも、生きている植物たちに最大限の世話をしていたい。毎日毎日動きは少ないが、ときどき目が止まったときに「大きくなったなぁ」と感じることが嬉しい。何よりも変化をする植物たちを見るのが楽しい。大きくして、増やして友人にあげるのも面白い。とにかく元気でいてくれという気持ちでいる。人には決して投げれない気持ちを投げているような気がする。気持ちを持っているのかわからないが、表現できない植物に向かって、勝手に抱いた希望をストレートで投げているような感覚で申し訳ない。しかし仕方ない。受け取ってくれよと水やりをする。

道端に生えている海苔みたいな植物

 いや気怠い。しかし起きなければならない。何故なら自治会の掃除があるからだ。4月から自治会の役員になってしまった。というのもアパートではなく一軒家のようなところに住んでいるために自治会費も払わなければならず、自治会にも参加しなくてはいけないのだ。全く知らない近隣の人に3月頃申し訳無さそうに頼まれたときは、断ることなんてできやしなかった。

 8時頃に無理矢理起床し珈琲をダラダラ飲んで集合場所に向かった。黙々と朝9時に家の周りの草をむしりはじめた。知り合いの近隣住民に交じりながらむしる。僕以外高齢者しかいない。とにかく褒められる。「若い人が役員になってもらって助かる」「若いねえ!」若いだけで褒められるので得した気分だ。同級生が大都市大企業、または地元の公務員で働く中、僕はよくわからない会社に入り、自治会役員として草むしりに参加している。よくわからない会社に入ったことは今も大後悔しているが、草むしりすることはむしろ面白いと感じる。おそらく同世代で自治会役員をしている奴なんていないだろう。それがどうしたと言われるかもしれないが、ここに住んでいる醍醐味だろうなと考えている。道端に生えている海苔みたいな植物を徹底的に剥がして、近隣のおばあちゃんが育てているみかんの木に付いたアブラムシをスプレーで退治していたら終わった。

 次の日の昼頃電話が鳴った。小学校の同級生。今は遠くに住んでいる。電話に出ると開口一番「サッカー観に行かへん?」良いじゃんと承諾。彼はサッカーを見るためだけに地元に帰ってくる。帰ってきては僕か家族を誘ってはサッカーを見に行く。僕としても小学校からの友人で定期的に会えるのは本当に嬉しいし、もうここまで来ると家族のような接し方をできるので嬉しい。人間の壁をほとんど感じない。

 チケットは好きなやつ買っていいいよと言った。サッカーを見に帰ってきている彼の好きなようにしてほしいという気持ちと自分の選択権を人に預けることで経験したことないような結果が生まれるかもしれないという好奇心が勝った。老後資金だとか年収だとか、全く興味がない。「将来」が気にならないんだろうなと自分でも気付いてきた。今欲しいと思えば買うし、今したいと思えばする。高いだとか損得とかで考えていたら、逃してしまうことなんてなんぼでもある。今のことしか考えられないんだよね〜と考えている。自分で稼いだ金の選択を友人に託した。彼の好きなようにしていい。一種のギャンブルのような感覚だ。そして今回、彼は一番高い席を買ってきて笑った。彼の行動は全て分かると思っていたが、今回ばかりは予想外だった。「高ない???」と文句も愚痴も含んだ返信をしながらもニヤニヤしている。非常に楽しみな予定ができた。

 

気の利いた買い物

 気が利いた買い物がしたい。特に食べ物についての。今すぐはいらないけれど、いやこれがあって便利です~、過去の自分エラい!となるような買い物。ナイスだな~自分と唸りたい。最近たけのこの細切りを買っていた自分にサムズアップしたくなった。青椒肉絲を作るときに、たけのこは無くてもいいと思っていた。しかしたけのこを入れることで食感や味が大きく変わり驚いた。気が利いた買い物であった。また明くる日はグリーンピースを買った自分は気が利いていたと感じた。色味を加えるし、なによりもなんかあったら嬉しい食材なきがする。あんたは偉いよ、過去の自分。

 買い物をするとき、非常にあれやこれやと考えながら買い物することは苦手。美味しそう、面白そうとかいう直感で買い物をしてしまうので、カートを見ると野菜、肉以上みたいなときがある。これは気が利いてないのでNG。実際、肉と野菜があれば料理ができると思うのは大きな勘違いで、小さなアクセントとなるような食材がほしいときがある。かまぼことかカニカマとかは最適解。見た目も良くなるし、なにより美味い。しかしかまぼこやカニカマを買おうと言う気持ちでスーパーに向かうことは殆どない。だから見落としてしまうことが多い。帰ってきて料理を作り始めて、やっとああ!と気付くのが大半である。

 考えてみると、買い物というのも経験の積み重ねりであって、ひとそれぞれである。冷食ばかり食べる人は最適な冷食を選ぶし、家族のために料理をする人は家族一人一人の好き嫌いを把握しながら買い物するはずだ。買い物は履歴書なのかもしれないと考えると、人のカートの中が気になる。ジロジロと見るのも良くないが、サラッと見てしまう。刺し身に酒が入ってたら晩酌かなと考えたりするのも楽しい。

 気の利いた買い物がしたい。過去の自分にサムズアップしたい。

ああ今日も一日家から出なかった。

 昨夜レイトショーで買って食べきれなかったポップコーンのキャラメル味を食べた。レイトショー。真夜中に近づく中で街にいること、そして映画を見ていること。高揚感に包まれた。映画をあんまり見ない人間だからレイトショーは久々だった。だからか知らないけれど昨夜のレイトショーは非常に気持ちよかった。色んな気持ちが目の前からサッといなくなり、ただただ映画の感想がドッと湧いてくる。気持ちがいい。帰宅するのも深夜で、特別な気分だ。見た映画の考察を見たりしていていつの間にか寝ていた。 

 朝起きて、キャラメルポップコーンを食べると高揚感を思い出して嬉しくなる一方、さみしくなった。楽しかったなあという気持ちがしんしんと心に生まれては消えていく感じがなんとも言えない。気怠い気持ちを温かいチャイが、さらに気怠くさせてしまう。今日は有給だ。特に何も予定はない。ほんとにここのところ休日に外に出るのが億劫。春が苦手なのか、それとも冬が過ぎ去ってしまうのが悲しいのか。どちらかかは分からないけれど、とにかく億劫。

 朝食を食べて、またベットに潜り込む。ベット周りが暗くライトを増やしたいなと考えていたら昼だった。料理をする気力もないので、冷蔵庫にあった中華麺とパクチーで訳のわからない東南アジア風の麺を作って食べた。よくわからないが、旅先で出会いそうな味だなとか思った。ああ、海外。海外に行きたい。とにかく自分の好きな場所を訪れたい。ロングフライトで疲れてホテルで爆睡して、体調を壊しながらでも移動して、今日も疲れたと言いたい。もしコロナ禍で無かったら、今の仕事なんてしてたらもっと心が死んでただろうなと感じる。嫌でも同級生が海外にでかけていたり、仕事で滞在しているのをSNSなんかで見かけて、落ち込んでただろう。ある意味助かっているのかもしれない。が早くこんな気持を投げ捨てたいと言い続けて2年になる。

 レイトショーが忘れられず、映画を見る。時々窓を開けて外を眺める。意外と冷たい風が入ってくる。今日は曇。鳥が飛んでいるのも見えた。家の中にいると外の世界が他人事のように感じる。言葉にうまくできないが、関係のない世界のような気分になる。このままで家の中でこれから人生完結すればいいのにという気分になったりする。自分でもよくわからない。

 夕方になった。職場から電話。どうでもいいことだった。なんだか嫌な気分になったので、気晴らしに珍しく夕方にコーヒーを淹れた。いつもは朝とか夕食後に何気なく飲むので、夕方に飲むぞという新鮮な気持ちで飲んだ。気持ちが入ったのか、いつにも増してスッキリしたような気がする。夕方から雨だったので少し頭痛もあったがそれも吹き飛んだ。

 ラジオを流しながらせっせと作った夕飯は回鍋肉。ラジオだけスキマ時間を埋めてくれるし、気分も楽しくさせてくれる。もっぱらひとり暮らしを始めてからFMcocoloばかり聞いている。選曲もそれぞれの番組も時間にあったテイストでなんだかんだ好きだ。高校受験のときに良くラジオを聞いていたなと思い出す。何を聞いていたのかなんて忘れてしまったが。野菜たっぷりの回鍋肉だけでは足りず、即席で中華スープも作って食べた。

 ああ今日も一日家から出なかった。

 

???

 何もやる気がなく、しかしどこかに行きたいという気持ちが一緒になった不思議な気分の休日であった。人に会うことや外出すること。とても大事。しかしどうしてもめんどくせえという自分が勝ってしまうときがある。それでは本を読もうと手に取るけれども、いつの間にかスマホをいじっている。気付いたらスマホ。昔からそうだ。インターネットサーフィンがとても好きだった。一週間に一回、祖父の家で触れるパソコンがすごくすごく楽しみだった。外の世界とつながるツールだったのかもしれない。ゲームをしたり、今で言うSNSみたいなページにも登録して外に外に向こうとしてた。今じゃ、信じられない。友人を増やしたいという気持ちも恋人をマッチングアプリで見つけようという気持ちも湧かない。まずプロフィールを作るのがめんどくさい。ただただ自分のプロフィールを書くのか、それとも外にいい面を見せれるようなプロフィールにするのか。そんなことを考えると億劫で億劫で。インターネットサーフィンをしてしまう。気付けば一時間など余裕に過ぎてしまう。もったいない!と感じるのだけれど、こういう時間も大事だと感じる自分がいる。対立した自分の中の心をじっと見つめてみる。マイナスな気持ちとプラスな気持ち。合体させたら丁度いいのに、決して混ざらない。いつまで経っても睨み合っている。どちらの気持ちによるかは自分次第なのだが、まるで振り子のように行ったり来たりしている。どっちつかずなのだ。どっちつかずの何が悪い!良いじゃないか。どっちつかずだから助かることもあるだろう。

 筆に任せて、というかキーボードに任せて書いてみると???となる時があるがこれもこれで気持ちがいい。構成された文章も好きだが、ダダダダと音を立てて流れるようあん文章にも憧れる。そこに意思があるのか、ないのかなんて書いている当の本人もわかっていない。そういう文章が最近は好きだ。(ここで五分スマホをいじり、さっきまで書いた文章を読んだ。)

 一度読み返して、自分でも???となるような表現も色々あるけれど今日は今日で、支離滅裂でありたい。そういう気分なんだよ。